奇転の会−ST

 

 

 

 夫婦生活に疑問はなかった。

 学生時代から育んだ愛を大切に、そして愛おしく2人で守る生活は私の人生に確かな意味と実感を与えてくれており、それは1人の人間として満足するべき水準を充分に満たしていた。

 毎朝起きると用意される温かい朝食。エプロン姿の妻と向かい合って摂る食事はその日一日に起きるあらゆる障害への万全なる精神準備を私にもたらしてくれる。

 休日が待ち遠しい、早く家に帰りたいと当たり前に思えることを妻に感謝していた。

 だが、妻にとっての当たり前は突然に崩壊した。私は幸福から転落した不幸ほど不幸な事はないと、その時に深く思い知った。

 産まれた彼には“クラン”と名付けようと2人で決めていた。しかし、その名はよもや自分が書くとは想像もしなかった死亡届に記されることとなった。

 妻の落ち込みようは見るに耐えかねる程で、何も問題なかった自分の日課も、問題があったのではと的外れな自問自答を繰り返していた。私のことなど忘れてしまったのかと思うほどクランのことに没頭しており、どうにか見て欲しい一心で妻を慰める自分の希薄さが私の精神と日々を危ぶんだ。

 やがて妻は立ち直り、いつものように振舞うようになったが、やはりかつて程一心の愛情を私に注いでいるようには思えない。

 彼女の無念も私は解る。ただ、失ってこれなら、無事生まれていたら私の存在は彼女の中でどれほどになっていたのかと恐怖している自分と、妻の愛との大きな相違に戸惑っていた。

 

 “かつて”に戻らない妻を襲った悲劇は再びの最果てへと彼女を突き落した。

 14歳の少年が無謀にも行った運転行為の顛末は“都心の公道を90kmで疾走し、挙句信号を無い物として扱い、そしてルールを守って横断していた一切の問題が無い女性を突き飛ばし、彼女に下半身不随という残酷な障害を与えた”というもの。

 妻は我が子の消失からまだ1年も経たぬ内に、両足の自由を奪われた。翌日に意識を取り戻した妻は医師から詳細を知らされていないこともあってか、戸惑いはするものの、大きく取り乱すことはなかった。

 それも当然で、前日まで動いていた足が今は動かないなどと、容易く理解できるはずもない。思ったとしても、“何か手段がある”と考え、現代医療を信じきっていたことであろう。“二度と歩くことはできない”と言った後の“リハビリによる回復も完全に無いとは言い切れない”という医師のフォローから、“完全ではない”という微かな安心が妻を繋ぎ止め、我々の「頑張ろう」という言葉と私の愛が妻の精神の崩壊を防いだのだと信じたい。

 しかし、予想を上回るほどにまったく動かない下半身の現実に、妻は繋ぎ止めていた微かな安心に疑問を感じ始めた。「やはり無理なのでは……」その言葉が思念に留まらず、口から零れ出した時に私は思わず言葉を詰まらせた。ただ、抱きしめて精一杯に「大丈夫」と言うだけだった。私にしがみ付く妻の体温は、いつもより温かく感じられた。

 最も妻の精神に痛みを与えたのはやはり、糞尿の処理であろう。自分でそれが行えない、出たそれを他人に見られることが今まで見られることなどなかった妻の自我に絶望を蓄積させていった。

 弱っていく妻はそれに伴いよく泣くようになる。リハビリ後の2人きりの病室で私の胸にすがって泣いていた妻は、やがて私が病室に入るとそれだけで喜び、しがみ付くほど私に依存した。看護婦に任せていた糞尿の処理も私が行うようになった。夜の病室で不安に咽び泣く妻の体温はかつてのように高く感じられる。

 そして、私が「これからは僕が君の足となる」と彼女の感覚の無い足を撫でながら囁いて以来、妻はリハビリを行わなくなった。それよりも2人で暮らしたいと彼女は願い出て、医師もそれを了承した。2人で暮らすことの了承を今更判別する医師に少しだけの怒りを感じたが、とにかくこれで“かつて”のように2人だけの生活ができる。

 初めは車椅子にも慣れず、料理も苦心して行っていた妻だが、そんな彼女を手伝う私と感謝する妻の現状は私に得も言えぬ幸福感をもたらした。

 しかし料理は妻に負担となる。彼女の身長に合わせて構成したキッチンは今の彼女にとっては不釣合いな物。だから、極力私が行うことにした。上質な栄養と味を妻に提供したいが為に、料理教室に通い、そこいらの外食店では手も足も出ないほどの腕を身につけた。いつしか妻が料理を行うことは無くなっていた。

 洗濯にしても上向きのそれに洗濯物を入れるのは苦労するだろう。だから、私がすることにした。横向きの最新型は値段が高く、それに洗濯は私がすればいいだけのことなので贅沢である。贅沢を言う妻を私は丁寧に諭した。

 掃除にしても妻にとっては重労働である。立ち上がることすらできない彼女はどうやって棚の上を磨くのであろうか。掃除はやはり手で、雑巾で行ってこそ効果がある。清掃業者の人間も、製品も所詮は家庭の生活環境の水準を落とす結果しか生まない。本当の“丁寧な管理”は持ち主にしか行えないものだ、と妻に言い聞かせた。「それくらいできます」と無茶苦茶を言う妻に私は初めて激怒した。愛しい妻が無茶をしていないか、毎日帰宅後に埃の量をチェックする習慣が始まったのも全ては彼女の為である。

 妻にとってはあらゆる事柄が危険になりかねない。外出など有り得ないので必要なものは全て私が買い揃えた。インターネットでの販売は宅配業者を装った強盗があるので禁止することにした。全ては万全の安全を妻にもたらすためである。

 仕事から帰り、疲れた精神を癒す妻は私にとって必要不可欠な存在である。ベッドで彼女に跨り、腰を前後に振って頻繁に出し入れしている間も、下半身に感覚の無い妻は快楽を得ることができない。妻はその不感さを嘆くのではなく、瞳に涙を溜めて私にこう言った「ごめんね。こんな反応の無い女じゃ、つまらないでしょ……?」。

 妻の言葉は衝撃的だった。私は下半身を止め、彼女の裸体に覆いかぶさって強く抱きしめた。つまらないわけが無い、飽きるわけが無い。彼女がいなければ自分は崩壊する。むしろかつてより自分を見てくれている今の君がどれほど素晴らしいか、そのことが伝わっていなかったことが無念で仕方が無い。その日、私は痛くなっても妻との営みをやめることは無かった…………。

 

 妻を愛していた。誰よりも、何よりも。そう、“かつて”の私は妻をこの世で最も大切なものだと思っていた。

 そして、それが今では“理解できない”。大切なものがある日突然大切ではなくなる理由は無限の状況を想像できるが、アレの場合、そういった類のものでは無かったと今でこそ思う。

 最も大切な物がこの世に存在すると解るのにそれが何か解からない――。この精神状態は何が原因なのであろうか。まったくもって謎であり、そしてその不足感は私の精神と日々を激しく揺さぶる。入手したい焦りと入手できない怒りで時折自分を制御できなくなる。

 本当に、ある日を境にしたことなのだ。私が、彼女をそれほどでもない者だと思うようになったのは――――。

 

 

Act0

 

 “アッパーロード”。リングランド南西部に位置するこの経済都市は煉瓦造りの家屋と新素材の先進建造物が見事に融合した町並みを誇っている。観光して良し、買い物して良し、商売して良しと安定した収入が支えている多目的都市であり、急激な経済変化にも柔軟に対応できるリングランドの優良財源である。

 272日後に完成を控えたツインホーン(タワー)は日光を計算に入れ、遠方からは黄金に、近距離からは白銀に見えるように設計、建設されている。現在は5階までのフロアしか公開されていないが、既に美しい。完成すればリングランドシンボルの一つとして注目を集めることであろう。

 ビジネス街のカフェ、レストランでは車や美術品の展示を合わせることが流行であり、ほとんどの新設施設がガラスを纏い、混在する赤煉瓦との透明度の対比で他の都市に無い幻想的で実用的な景観を擁す。

 都市中央部の煉瓦家屋は文化的理由もあり、非常に価値が高い。都心に住むならばまだビルの方がマシなのだが、それでも高額なため、中級の労働者は郊外から通う者が多い。

 一見して何の問題も無い平和な都市なのだが、この時勢にその規模で問題が無いはずも無い。現在問題となっていることは少年の非行である。主に理由とされるのは「両親の共働きが増加して家庭が蔑ろにされている」「かつて、煉瓦家屋は貧困者の住むものとされていたため、その影響で一部の煉瓦家屋が非行のメッカとして知れている」などが挙げられている。

 そのため、ビジネスビルなどは至って紳士的な空間なのだが、駅や辺境地区は思った以上に危険がある。この未成年による非行を防ぐことが最大の目標とされ、できることならば完全に大人の領域として非労働者である未成年の滞在数減少を進めようとしている。

 そんな都市の思惑にも、何でもいいから反発したい、反発すれば歯向かっている姿が格好良いはずだと思い込む未成年者たちを滑稽にも刺激してしまい、その方針は未だ成し遂げられていない。

 古い伝統と新たな社会風潮が見事に反発している都市の上層部もリングランドの懸念であり、古い上層社会の抵抗としてその子供らへの自由が蔓延ることが上記の問題の根本にも繋がっている。

 

 “ボラーレ”の絵を中心に飾っている美術レストラン。ガラス張りの清潔な2階の1席に座る男性は、今日も中場を迎えた仕事に一時の休息を与え、愛する妻のことを思っていた。今夜作る料理は……と片手で扱える小型のパソコンを開く。一月に亘って念入りに練られたメニューを確認し、不備が無いかを確認する。1日8回は最低限の確認数である。

 ふ、とガラスの外に目を落とす。通りにはスーツを着た男女が疎らに行き交っている情景がある。それ故に目立つパーカーのフードを被った3人組。花壇の石壁に気安く腰掛け、怖い物など無い、と大層な声で笑っている。声は聞こえてこないが、その若者達の笑い声は明らかにこの場にそぐわないものであると確信できる。

 まだ若い。15前後であろうか。学校も行かずに白昼から街に繰り出し、同じ色のパーカーを着て談笑するその姿。

 思い出す。

 車椅子に乗って現れた妻に「こういう人始めて見たんだケド」「ホラ、立ち上がれよ、できんだろ?」と続けざまに言った少年の姿と声。丁寧に誤りに来た彼の親は挨拶の次に賠償金の話を始めた。金に余裕がある彼らに金を払ってもらって……それで何が償われたのであろうか。

 社会は全てを許し、あたかもそれを無かったことにした。少年は「情緒不安定」「精神未熟」などと人間ならだれでも当てはめることが可能な理由で教育施設に送られ、早々とこの街に開放されたらしい。

 たむろする少年の声があの少年の声と重なって聞こえる。今、あの少年に詰め寄り、殴りつけようものなら自分は社会の違反者として侮蔑と軽蔑の対象となる。少年は社会の規則を違反し、人間1人の人生を捻じ曲げて、それらは彼の親が金を払うことで許された。

 “ディアブロ”は愛する妻を“自分以外”で傷つけたあの少年を思い起こし、重なる3人の少年さえも憎んだ。あれで終わったと彼は考えない。まだ終わっていないと彼は考える。

 

 視界には映っていないのだが……。

 

 怒りで朦朧としたディアブロの意識に視線が突き刺さった。テーブルの向かいを見ると、ランチセットを挟んで1人の男が座っている。七三分けの髪型だが、赤いメッシュが入っており、左の頭髪は刈り上げられている。奇抜だが、あまり恰好は良くないその髪形。普通のビジネスマンにしては異様なその姿。どこぞのデザイナーの類であろうか。

 彼は何者か。ディアブロは咄嗟に考えたが、幾ら記憶を辿ってもわからない。目の前に座る男はやはり、どう考えても“見知らぬ人間”である。

 ディアブロは考察の間に言葉を失っていた。その様子を見て、七三の男が先に口を開いた。

「ディアブロさん。何も怪しむことは無い。私はあなた達夫婦の後援者ですよ」

 開口一番に怪しくないと言う人間ほど怪しいのが常だが、ディアブロには“夫婦”という言葉が引っかかった。そして、その引っ掛かりが取れる前に七三の男は続けた。

「“奥さんの事故”は、実に不愉快な事件だった。そして、似た悲劇が今もこの社会では繰り返されている」

 今、正に妻とあの少年と例の事件について考えていたディアブロにとって、その言葉は自分の内心を客観的に見るかのように鮮明に聞こえる。

 ディアブロは「誰だ」と聞く前にこの男が次に何を言うかを考えた。

「あなたの奥さんのような被害者は少なくない。そして、加害者の少年と同類の少年がこの街には多すぎる……私は、非常に強い怒りと不満を覚えています」

 自分に同意するかの様なその言葉に始めて心が揺らぎ、そしてディアブロはようやく口を開く事ができた。

「あなたは、何者ですか!?」

「あなたと同じ疑問を抱える多くの仲間の1人ですよ。ところで……あの事件を終わらせたいとは思いませんか、ディアブロさん?」

 終わらせる――。そんな馬鹿な、とディアブロは心で疑った。当事者である彼ら夫婦ならまだしも、他人である人間があの事件を“終わっていない”などと言うことが信じられない。社会、つまりディアブロ夫妻以外の人間からすればあの事件はすでに終わっているはずなのである。

「あの程度で。あれだけのことをした人間があの程度の事で許されるハズも無い。いや、許されるべきではない。少年だから、精神がおかしいから仕方が無い? どうなんです、ディアブロさん?」

「…………」

 ディアブロはこの問いに答えられなかった。彼が思いついた答えは、一般的には異常とされる答えだからである。

「私は、あの少年は罪を償っていないと考えています。だから、あの事件は“終わっていない”」

「……どうすればいい。それでも、どうにもできないだろう」

 あまりにも鮮明な男の回答に、力無く抵抗する。

 七三の男は、少し視線を逸らして手のひらを組み、静かに答えた。

「つまり、あなたの妻への愛は、どれほどなんですか?」

――――!!!!!!!!

 危うく叫ぶところであった。いや、叫んだのだが、あまりにも強大な怒りをディアブロの咽頭が表せなかった。

 “どれほど”だなどと聞かれることが意味する侮辱に、ディアブロは怒り、かつその言葉を言わせてしまった自分を悔やんだ。

「勝手な事を言――――」

「つまり、反動が無ければ……いいのでは?」

「――――?」

 激怒している自分から離れず、寧ろ視線を合わせて身を近づけた七三の男に、ディアブロの煮えた感情は押さえ込まれる。七三の男は真剣な表情で続けた。

「あなたは復讐による社会的制裁を怖れている。だが、それは保身ではない。あなたへの制裁は守る必要のある妻を放棄し、危険に晒すことに繋がるから怖れている――私はそう感じましたが、どうです?」

 男の“復讐”という言葉から、過去何度思い描いたか解からない、あの少年の死に様を連想するディアブロ。事故のように、抗う対象も解らず、瓦礫に埋もれて潰れるあの少年。

「できることならば、あなたの手で終わらせたい。あなたの最愛の人を傷つけた罪は、あなたの手によって裁くべきなのでは?」

「それができれば、とっくにしているっ――――!」

 テーブルに両肘を落とし、声を荒げる。怒りの矛先はあの少年である。

 そんなディアブロをなだめるように、周囲に配慮するように。大人しい仕草で小さなデータチップを差し出す七三の男。

「今はまだ、決断する必要は無い――ですが、その姿を確認してみるだけでも前進ですよ」

 そう言って席を立つ七三の男。ディアブロより先に別れの挨拶を残していく。

「また会いましょう。その時は、互いに握手の一つでも交わしたいものです」

「?」

 渡されたチップと男の言動が噛み合わず、呆然とするディアブロ。

 立ち去ろうとする男は振り返り、刈り上げられた左側面の頭髪を撫でながら口を開いた。

「……僕は“嘘つきが嫌い”でね。あなたは正直者ですよね、ディアブロさん?」

 そう言い残して男は立ち去った。途中一度だけ振り返った男の表情が楽しそうな笑顔にも見えたが、ディアブロは最早、そんな些細な事に疑問を感じはしない――――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

―――――少年は笑顔だった。同じ柄のパーカーの仲間達と共に、若くも苦々しい程の笑顔であった。

 街の中心街にある煉瓦の家屋は比較的大きなもので、そこは昔からそういった類の少年達が集まることで知られていた。

 3階建ての建造物の裏側で、ディアブロは動悸を抑えている。

 姿を見ただけなのに、既に感情を抑えられない。

 だが、どうしろというのか。刃物でも持って切りかかればいいのだろうか。それで奴を始末してどうなる。結果は妻との離別であり、それでは釣り合わない。

 あまりの矛盾に吐き気を催し、一先ずその場を離れる。

 暫く歩き、大通りに近い場所で壁を背にして座り込む。

 

 無力――自分の無力がずっしりと背に覆いかぶさる。

 

 こんなことならあの少年の情報が入ったチップなど貰わなければ良かった。大人しく家に帰り、愛しい妻と食事をしていれば良かった…………。

「――――矛盾と、怒りを抱え込みながらかっ!?」

 崩れ落ちるかつての日常を自覚して、妥協に悩む自覚の無いディアブロ。

 

 その様子を見る幼い少年。

 少年は、ウサギのヌイグルミを手にしている。

 

 ディアブロが傍らの幼い少年に気がついたとき、彼に最後の杭が打ち込まれた。

 

『 おじちゃん。もう、外れてるよ―――― 』

 

 

 

この顔を見てさ、一体、何が“足りない”と思う――?

 

 

 

 

 

「朱雀君、“外れ”って知ってる?

 

「ハズレ? なんだ、競馬でボロ負けでもしたのかい?

 

 

 

 

 

 

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キテンノカイ

 

BLOCK1: ディアブロ/ヴァイオレット

 

 

 

 

 

 

 違うわ、“外れてしまった人たち”のことよ」

 

 ……随分と飛んでいること言うんだな。相談なら乗るぜ?」

 

 

 

 

 

――――――“絆”を断つ者を、私が許す事は無い

 

 

Act1

 

 休日のビジネス街には疎らなスーツ姿の人間が点在している。高潔で、それでいて高品質な大人の街は凪の海面を連想させる程に穏やかである。

 ガラス張りのカフェは広々とした空間に大きく距離を取ってテーブルを設置しており、各席の間には新進気鋭アーティスト達の作品が、思惑のある不規則に従って展示されている。

 美術カフェとしては若いが、それ故に新鮮な試みがふんだんに盛り込まれた店内。スーツ姿の男性や女性が一時の休息を楽しむ光景に、赤と黒のロングコートはどうしても異質であり、目立つ。被っているツバの広いテンガロンハットも彼の異質さに拍車をかけている。

「あのね、別に変になった訳じゃないから。真面目に聞いてよね」

 長い髪を後ろに結んだスーツ姿の女性。彼女のメガネには、対面に座る異質な男の小馬鹿にした笑みが映っている。

「だってさ、突然“外れ”とか言い出すから」

「何よ、最近話題になってるのよ」

「お前のことだから、どうせオカルティズムだろ? ……インテリも行き過ぎちゃねぇ」

 聞く耳を持たないコートの男。卵のサンドイッチを頬張りつつ答えているので、意識も散漫である。

「あのね、“外れ”はかのヴィンセント卿が提唱した人為的進化論を根底としてヴィンセント卿自ら導き出した“有りえるべき現象”なのよ!」

(……やべぇ)

「“外れ”の概念は人為的進化論の実践に繋がるとも言われているわ。その“外れ”はね、今、こうしている現在はもちろん、人類が人類として成り立った瞬間から生じてもおかしくない、普通の人とは一線を隔す文字通り蓋を“外した”者なの。あなただって仕事柄、一般的ではないものに関る可能性が多いんだから、こういった普通は入手できない情報は貪欲に収集するべきだわ。あと、超現実な情報を扱うのは私の仕事上避けられないことだから、インテリになるのもちょっとオカルト臭が濃くなるのも仕方の無い事じゃない?」

 ・・・必死な様相で何かを唱えている女性。

 その後ろに飾ってあるCGグラフィックのイラスト。鯨と海豚が交尾をしているという構成なのだが、伝えたい事が何かよく解らない。コートの男は芸術って一体何なんだろうね、と彼にとってはどうでもいいことを考えている。

「あ〜、ふ〜む、そうかもなぁ〜」

「――“朱雀”君、聞いてないでしょ」

「ん〜〜、聞いてるなぁ〜」

「……いいわ、解った。面白可笑しく伝えればいいのね。そうね、例を挙げると――」

「つーか、そろそろ家行かねぇ?」

「・・・えっ!?

 カレン=ミリタナ(26)は驚愕し、尚且つ考えた。

 なぜかというと、確かに彼とそういうことをしたことはあるけれど、でもそれは偶然の産物というかたまたまとでも言うべきか。とにかく、そうそう簡単にそんなことに再びなるとは思っていなかったからであり、大体、こうしてまじまじと2人きりで男性と会話できる機会自体が少ないのに、この男ときたら“家に行こう”などと突然言い出すからである。そういう流れであるなら事前に連絡しておいてくれないとベッドは整っていないし、ティッシュはきらしているし、洗濯物も干しっぱなしでだらしない気がするし。そうだ、冷蔵庫もごちゃごちゃなので開けられちゃったらどうしよう。まったくもって相変わらず、この人は行き当たりばったりで困る・・・。

「い、家ってどこのよ?」

「お前の家だよ。飛行機からエスメラルド特急と乗り継いだから疲れたんだよね。ちょっと横になりてぇんだわ……まあ、今更に宿をとってもいいんだが」

 コートの男は少し上を見上げて疲れた肩を鳴らした。

「つまり、宿代をケチるって言うのね」

「そう取ってもらっても構わない」

「…………まったく、相変わらず金に汚い人!」

 カレン=ミリタナは嬉しそうに悪態をついた。

 

 

 レストランを出ると、やはり街は人が少ない。だが、それもこのビジネス街に限った事で、少し離れれば群集が至るところに形成されていることであろう。特に先月一般公開が始まったリングランドシンボルの1つ、“ツインホーンタワー”の周辺は人、人、人の人だかりに決まっている。

 せっかくアッパーロードに来たのだから、ツインホーンを一目拝みたいと思うのが普通の思考。全高188mの巨大な三角錐は2つ並んでおり、高さでこそ他国のシンボルタワーに劣るものの、その外観の斬新さと塔内で渦を巻く一本構成の螺旋階段が今、世界の話題を掻っ攫っている。

 塔内の各ボックス(店舗または住居用の空間)も見事な三角錐に積み重なっており、全体は外壁を一回り小さくした作りとなっている。螺旋階段はこのボックスタワーの周囲を取り巻いているので、階段のあらゆる角度から外を見渡せる。

 太陽光の吸収と熱の遮断を目的とした2層の素材がほぼ全てガラス質といっても過言ではない外壁からの日光反射を押さえ、吸収された熱は断熱材を経由して塔地下の発電施設に送られる。

 距離によってその輝きを変える巨大な双角は、世界が歴史に誇るべき文明の結晶である。

 

 休日のビジネス街にやや赤い黒色のロングコートとテンガロンハットはやはり目立つ。が、着ている人間があまりにも自然に着こなしているので、不思議と違和感は無い。

「あれ、このコート前と違う?」

 カレンは彼のコートをまじまじと眺めた。

「色合いに赤が少ないんだよ。これでも街に合わせて若干変えてるのさ」

 赤黒いコートの男――“朱雀”は小さな箱を取り出しながら答えた。

「あ、この街は公共の場では全面禁煙よ」

 カレンの言葉に一瞬苦い表情を浮かべ、「またかよ」と頭を抱える。

「……お前の家も禁煙?」

「え!? わ、私は吸わないけど……」

「ああ、ヤニ切れで死んでしまうぅ〜」

「――もう、しかたないなぁ。特別に喫煙を許可するわ」

 情けない声を出す朱雀を見かねて、カレンは嬉々として許可を出した。

 カレンの部屋はほとんどビジネス街に隣接した場所にあるので、2人はのんびりと、買い物も兼ねて歩道を歩いている。

 

突如、携帯が唸った。

 

 朱雀はコートの右脇で小刻みに震える携帯に凄まじい面倒臭さを感じた。例えるなら、学生が自宅で彼女と2人でいるときに保護者がノックした――程度のことなのだが、今は相手が悪い。

 取り出して開いてみると、しつこい着信相手は朱雀の勘通りの相手であった。

「――はい、なんすか」

 あのベンチに座ろう、とカレンに促しながら朱雀は着信に答えた。

『お! 出た出た。聞いたわよぉ〜、今リングランドなんだって?』

 通話の相手は女性で、いつものように惑いの無いハキハキとした口調で話す。

『ツインホーンには行ったかな? あれ、ホント凄いわよ。思わず1室予約しちゃった♪』

「そうっすか、今日はテンション高いすね。それで、用件は?」

『あらら……』

 非常に不機嫌な対応から朱雀が現在女といることを察した通話相手だが、比較的どうでもいいのでそのまま続ける。

『仕事の依頼よ。ちょっとフランツに行ってこなして欲しいの』

「仕事? 何の」

『詳細は送ったけど、簡略すれば抹殺依頼ね』

「……」

 何よりも鬱陶しいのは、まるで子供にお使いを頼むかのように隣国に行けと言うその気安さと、既に資料を携帯に送っているという傲慢さである。

 ベンチに腰掛けて頭を抱える彼をカレンは不安そうに横目で眺めた。その視線を感じて、一層気まずい心持の朱雀。

「勘弁してくれよ、こっちにも事情があるんすから」

『今、そっちに的確な人材を送れそうにないのよ。相手はちょっと得体がしれなくて、厄介なの』

「厄介な仕事を簡単に押し付けんなよ……」

『お願いよぉ。交通費も出すから』

「交通費って、たかが地下鉄と欧州特急一本分じゃないすか――ったく」

 朱雀の脳は虚しくも既に、引き受けた場合のスケジュールを構築している。

『ホント、やっぱり頼りになるわ、君。支払いは既に全額投入しといたから、よろしくね』

 ――バツリと切られた通話。しかし、既に想定されているスケジュールの開始と一致した事態なので何にも驚く事は無い。むしろこれ以上振り回された気持ちになりたくない。

 依頼よりも何よりも、これからのカレンへの対応が難解である。気持ち的にもベッドまでのレインボーロードが既に定まっていただけに、色んな意味で萎える。

 

 ――説得する事約12分。

 彼女から平和的な納得と理解を得ることには苦労したが、依頼の詳細チェックの末に導き出した“今日中に戻れる”というギリギリな条件で何とか許しを得ることができた。

「そうだ、折角だから夕飯作ってくれよ」

「え、つ……でも、戻ってくるのは23時近くなんでしょ?」

「俺も行きたくない仕事だからな。仕事後の上手い飯を“糧”にしたいのさ」

「! また勝手に決めるのねっ! しかたないなぁ」

 照れくさそうに眼鏡のズレをしきりに直すカレンに一時の別れを告げ、地下鉄の入り口へと消えて行く。

 

 往復の面倒臭さを想いながら、不思議と自然な男はホームへと続く階段を下っていった――――。

 

 

                                 $ 四聖獣 $

Act2

 

 休日の夜。

 フランツの首都、リロールの街路地がオレンジ色の街灯に染め上げられる。

 恋を囁きあう男女と温かな家族が交錯する都心。

 店頭に飾られたおもちゃをせがむ少女。祖父母に手を引かれ、楽しげに店内へと入っていく。

 

 

『――死体の状況から、何らかの特殊な技術・能力を用いた異常者だと推測される』

 

 平和を歌う、煌びやかな都心から離れた郊外。明かりが落ちた住宅地に建つホテル。ロビーの自動ドアが開かれ、1人の男が入ってきた。白いジャケットはやや膨れている。

 鍵を受け取り、定まった部屋へと向かうその男はズレた金縁のサングラスを気にすることなく、軽い恍惚を感じながら鼻歌交じりに階段を上っていく。

 

『――遺体は腐敗したというよりまるで食い荒らされたかのような状態である』

 

 5階の角部屋に入ると、男はあらかじめ買っておいた赤ワインを手に取り、それをドカリと机に置いた。コルクを外し、丁寧にグラスに赤い液を注いでいく。

 

『――僅かに検出されたのは“微生命の残骸”であり、該当するものは見当たらない』

 

 リモコンでTVの電源を入れると日本製のサッカーアニメが映された。

 

『――手段は狡猾だが、手際はお粗末で、複数の目撃情報の存在が幸いした/

/“センチネル”と呼ばれるその男は8日現在、ホテル・ヴィネに宿泊している――』

「っ!?

 サングラスの男は即座にTVの電源を落とした。

 空耳か? いや、それは確実に彼の鼓膜に聞こえた音声である。

「…………誰だ」

『あんたの同類だよ。もっとも、あんたみたいな馬鹿はしないがね』

 TVから聞こえてくる音声は嘲笑混じりに答えた。

「……くふっ、まぁいい。俺はこういう事態も期待していたからな――実に面白い」

 グラスに口を付け、一口含む。高級なその味に快感を覚える自分の素晴らしさに、男は感動して小さく唸った。

『それは心躍る命のやり取りのことかい? 残念ながらそれはねぇよ』

「くっくく。つまらないこと言うなよ、怖いのは解るがな」

『怖い?』

 足を組み、暗くなった画面に映る自分の完璧さに溜息を付く。

「そうだ。謎は恐怖を作り、理解が出来ないから興味を持つ。怖れながらも知りたいから、お前はこうして俺と話している」

 男は周囲を見渡してからジャケットの裏側に手を入れ、細いガラスの容器を取り出し、それに軽く口付けを施した。

『うむ、粗方合っているな。そしてその仕組みのせいで今、こうして俺は面倒な仕事をしているのだよ。つっても俺は別にどうでもいいんだがな、あんたのやり口なんざ』

「知りたくても解からないだろ。キサマら一般人には」

『あ?』

 

“パリンッ・・・”

 

『――何の音だ?』

「いや、悪い悪い。グラスを倒してしまった。ワインが一杯、無駄になったよ……くふっ」

 飛散した欠片を指で摘み、男は声を押し殺して笑った。

「くっっっくっくく」

『おいおい、どうかしちまう前にできれば“種”を教えてほしいんだが』

「なぁ、おい。お前どうする気だよ。どうやって俺をヤル気だ?」

『なんだ、どうしたよ突然』

「いるんだろ? このホテルに。近くに高いビルなんてないしなぁ。撃つのか、爆破するのか? 機会を待っているんだろ、この俺をヤレル機会をさっ」

『ヘイ、聞いているかい?』

「もう、逃げられないよ。手遅れさ。先にヤルよ、俺の勝ちさ。くふっ、そして、無敵っ。誰も俺には勝てないのさっ――――」

 

“ ――――パリンッ ”

 

「ふぁ…………ぬん?」

 砕けた脳髄ではまともな言葉など浮ばない。

 男の鼻から血が垂れ流れたのと同時に、彼は椅子から崩れ落ちた。先ほどまでマシンガンのように放たれていた言葉は止まり、愉悦に溢れていた顔は疑問の表情を浮かべたまま、次第に硬直していく。

 放たれた兵器はスイッチを入れられることなく、その後ごく普通に問題を起こすだけであった。

 この時“センチネル”がまず、行わなければならなかったことは部屋の電気を消すことである。薄っぺらいカーテンは遮光では無いため、影がくっきりと映ってしまう。この相手にとっては、頭部の位置さえ解れば充分なのだから。

 そして、彼は“300mも距離があれば狙いなどつけられまい”という狙撃に対する甘い考えを正す必要があった。最も、ゲーム感覚で井の中の蛙を極め込んでいた彼に“保身”を考慮する知性があったとも思えないが。

 

 ビルの屋上。借り物の狙撃ライフルを携えた人物は時刻を確認した。

「おー、さすが俺」

 ロングコートが高所の風で靡いている。

「手段云々はしかたねぇよな。面倒だったし。勝手に調べてろっ、てな」

 シルエットで解るツバの広いテンガロンハットを被り直し、狙撃手は安アパートの階段を下っていった――――・・・

 

 

・・・――――いつものように、食器を洗う。

 仕事が遅くなり、疲れた日にも、何故自分はこんなことをしなければならないのかと怒りがこみ上げてくる。

 洗い終えてリビングに行くとTVの電源が付いており、奴はその前で眠りこけていた。

 腹立たしい。

 自分は何もせず、楽をしてばかり。不幸を背負ったのはキサマだけではないというのに。きっと夫婦だからと甘えが出ていているに違いない。

 髪を掴み、頭を揺さぶるとこいつは目を覚まして叫んだ。

 何度言えば解る、見ていない時は電源を落とせと、電気代は誰の苦労で支払われているのか、何もしないキサマはそれを享受するだけではないか。

 必死に謝るその姿がいよいよ気に入らない。謝ればいいと思ってはいないか?

 なんと卑しい心であろうか。自分はこんなにも苦労しているというのに。

 まったく、定期的に教育せねばならぬこちらの手間も考えて欲しいものである。

 

しかし、何故私はこんな女の為に身をすり減らしているのであろうか?

今の私には、かつての私が理解できない…………。

 

 

                                   $ 四聖獣 $

Act3

 

 何を失ったのであろうか。

 瓦礫の下にあの少年を埋めた事で、私の心は満たされすぎてしまったのであろうか。

 

 寝て覚めたら忘れていたように、私は彼女への情熱を失った。逃げ延びた先、路地の一角を最後にその日の記憶は失せてしまっていた。

 次に目を覚ました時は我が家のベッドの上で、目覚めた私に妻は

「珍しいわね。あなたがお酒を飲むなんて」

 と微笑んでいた……が、しかし。そんなはずはない。

 鮮明である。その光景はフィルムに記録された映像のように鮮明に思い出せる。煉瓦造りの家屋が軋み、信じられない事に突如としてひび割れていく様が。その後の逃走経路も紛い無く思い出せる。現場に行けば、間違うことなく先導できると言い切れる。

 酒など飲まない。私は健全に、しかし異常者だった。

 説明を受けたわけでもなく、過去にそういった経験があったわけでもないが、私はこの両手の実力を理解した。

 そして、その日を境に。私は強力な不足感に悩まされることになった。

 

 得たものが大きすぎたのか? いや、しかしそれは得たと同時に目的を済ましてしまった。もう、この人生で使用することはないだろう。

 解からない。私は、その日の前日、いや、その日の記憶有る瞬間までこの女を愛していた。何よりも、掛け替えの無い最愛の人だと思っていた。厳密に言えば今も愛しているのだと思う。

 だが、かつてこの女が“クラン”のことばかり考えていたように、私は今、知りもしない彼女以外のものを想っている。

 これは、彼女に“愛想を付かした”というやつなのか? 違う、断じて違う。私は彼女を愛している。だが、最愛ではないだけだ。そして他の女性など取るに足らないとまで考えている。この矛盾はなんだ。

 

 私は変わった。なのに、彼女は変わらない。相変わらず私を頼り、すがっている。

 

 なぜ私が掃除洗濯食事にゴミ捨てまで行っているというのか。共働きでもないのに、これでは私だけが全てを負担している、不公平な夫婦関係ではないか!

 だが、彼女にそれらは決して行わせはしない。それは私が許さない。彼女にはあらゆるなんともない動作が危険となりえる。だから、彼女がそれらを行うことを私は許さない。

 どうしてここまで私は忙しない日々を送っている?

 どれだけ彼女の為に家事をしても、仕事の際に彼女のことを想っても、私が満たされることはない。ただただ、疲れていくだけである。

 

    彼女が悪いのか。彼女がいなくなればいいのか?

            ――――悪いわけが無い、手放すわけが無い。

 

 決定的に不足するそれから暫くの日々は、地獄の底に這い蹲って蠢く日々のように感じられた。それも、次第に地獄の気温は上がっていく。

 それほどの地獄だったからこそ、今にもこの身を投げ出しそうだった私に大切な物を教え・与えてくれた彼は私にとって最大の恩人であり、親友である。今日も彼への感謝を忘れることはない。

 

 

 親友からの電話は突然で、初めは理解できなかった。何度も聞き返し、取り乱しもした。

 親友の親友は私の親友であり、ついこの前に楽しく食事をしたばかりであった。

 私が戸惑うのも当然で、前日まで会おうと思えばいつでも会えた親友が二度と会えないなどと、容易く理解できるはずもない。思ったとしても、“誤報に違いない”と考え、都合の良い幻想を信じきっていただろう。

 

「彼は、何故、殺されたんですか……」

『君は彼がどういった人物か知っているでしょ?』

 親友の答えは実に明解なもので、彼の生き様を考えれば死因の理解もできてしまう。

「しかし、しかし……」

『“しかし”、そうだよ。だからといって君は“納得”まではしないでしょ?』

 親友の言うとおり。私はそれでも彼の死を納得はしない。

「納得……できないことは、終わっていないこと」

『…………』

 親友は答えなかった。私には、それが不安で仕方が無い。

「“センチネル”の死は、“終わってなどいない”……違い、ますか?」

『“ディアブロ”君――――――“絆”を断つ者を、私が許す事はないのだよ』

 通話は、そこで途切れた。

 

 親友との通話が切れた後。

 私は日々のままに。大切なものを胸に抱き、自信と共に自宅を出ることができた――。

 

                                   $ 四聖獣 $

Act4

 

「今すぐご購入で御座いますか?」

「ああ」

「そうなりますと、展示されている商品をご購入という形になりますが……」

「いいよ。とりあえずすぐに使えれば」

 店員は「かしこまりました」といって書類の準備を始めた。

「……ねぇ、ほんとにいいの?」

 カレンが心配そうに眉を下げている。

「だってあった方が楽だろ」

「楽って……あなたが帰った後はどうするのよ?」

「お前が乗ればいいじゃん」

「免許なんて無いわよ!」

「――じゃあ売ればいいだろ。ていうか保険とか面倒だからやっといて。俺は金だけ出す」

「えっ、ちょっ……」

 カードをカレンに渡して、朱雀はさっさと店内のカフェへと歩いていった。

 カフェといっても展示場とほとんど併設なので、やはり周囲はガラスである。商品との兼ね合いから2階以上には適さず、1階部分に作られているのだが、これが若干窪んだ土地に建てられており、ほとんど外が見えないし外からも見られない。

 明らかな設計ミスを考えて、朱雀は小馬鹿にした笑みを浮かべた。

 アイスコーヒーにはオマケとしてミニカーが付いてきたのだが、どう考えてもファミリーには入り浸り難いビジネス街でこのオマケはどうなのよ、と再び苦々しい笑いが湧き出てきた。

 オマケをポケットに仕舞い込む。ふと販売所の受付を見ると、カレンが店員とたどたどしく交渉している。チラっと振り向いた彼女に朱雀は「テキトウでいいから」と手をヒラヒラ振って答えた。

 暇な時間が出来たわけだが、昨日の多忙なスケジュールの疲れを癒すのには丁度いい。飛行機から始まりベッドに終わるまで。疲労した体にカフェインが染み渡る。

 それにしても、人は見かけによらないものだなと改めて朱雀は――――

「――――何なの、あんた?」

 

 視界には映っていないのだが……。

 

 朱雀は背後に座る男に話しかけた。

 その男はデザイナー崩れのような服装で、赤いメッシュと左側だけ刈り上げられた七三分けが特徴的である。

「おや、あなたに用があると何故思ったのですか?」

「こんな広い店内で、この閑散ッぷりで。背後に座ってくる時点で違和感がすげぇよ」

 面倒臭そうに返す朱雀。何者でもいいからさっさと失せて欲しいという態度を隠す気が無い。しかし、それを言うなら違和感を与える座席に座り、5分間も朱雀の後姿を眺め続けた七三の男も中々に大胆な性格である。

「普通、その程度の違和感なら黙っているものなんですがね。一瞥しない限りは」

「そういう遊びは他でやってくれ。面倒はもう充分なんだよ」

 コートのポケットに手を突っ込み、小さな箱を弄くる。

「中々癖が強い人ですね。それでは、用件をお話しする前に一つだけ伝えておきましょう。私はね、“嘘つきが嫌い”なんですよ……」

「・・・――で? あんたに興味はないんだが」

「とりあえず、心に留めていただければいいです。ただの親切ですから」

 その言葉の後――。

 七三の男は先程よりも落ち着いて、威圧感のある口調で質疑を始めた。

「用件とは、昨晩の事件についてです」

「事件?」

「ええ、リロールでね、殺人事件が起きたんですよ」

「ほう」

「あなたは“知っていましたか”」

「…………」

「答えてください。“知って・いましたか”?」

「……それを何故、平穏な観光客の俺に聞く?」

「――率直に言いましょう。あなたは昨日、リロールに向かってその晩にここ、アッパーロード・レオディルブロックに戻ってきた」

「その動向が怪しいとでも?」

「手当たり次第、可能性は疑うのが性分でして。答えていただきたい。あなたはリロールの殺人事件を“今、知りましたか”?」

「それをあんたに答える理由が見当たらないのだが」

「私はフランツ公安庁の監査員です。ところで、先ほどから質問ばかりですよ、殺人鬼さん

「おいおい、早速決め付けているのか。自称監査員」

「いいえ、あなたがそれを生業としていることを知っているから言いました。昨日の事件には今のところ関係なく」

「……ハッ。じゃ、そのことで引っ張ればいいだろ」

「そのことは認めるのですね。しかし、今はあなたが昨日殺人をしたかが大事。どうなんです、“あなたが殺ったんですか”?」

「…………」

「そうでないのなら“そうではない”と言っていただければいいだけのことですよ。否定をしてもらわないことには、私も引き下がるに引き下がれません」

「無駄は嫌いなんだよ……で、例えば俺が認めたとして。お前はそれでどうする?」

「? 仕事をこなしますよ。私にも家庭がありますからね」

「捕まるとでも? 生きてそれを報告できるとでも?」

「――――――」

「いずれにしろ、お前の権限が本物である必要はあるがな」

「――いや、無理だな。あなたは私の口を塞げはしない。それでは罪を認めたようなものだ。私が今、あなたと会っていることは同僚が知っている。それでも“私を殺せる”と言えますか?」

「……そうか。てめぇ、俺を軽く見ていやがるのか」

「濁さないでいただきたい。“出来る”のか、出来ないのか」

「……どうにも割り切らないと納得できないらしいな」

「ええ」

「俺もだ。さっきからお前が本物なのか偽者なのかで迷っている」

「「――――――」」

「………………さて」

「――ここまでです。お連れの方が来ましたよ」

 七三の男は流れを遮るように立ち上がり、朱雀の肩に手を乗せた。視線の先には駆け寄ってくる女性の姿がある。

「お時間をとらせてすみませんでした。とりあえず、これはお詫びとして差し上げます……。先に他を当たることにしましょう」

 テーブルに置かれるミニカー。朱雀が振り向くと、デザイナー崩れのような男の背姿を確認できる。彼の鋭い目は、その特徴をしっかりと把握した。

「あれ、今あの人と話してた?」

 カレンは受け取った鍵を朱雀に手渡しながら、去っていく変な男を気にする。

「……デザイナーだってさ。スカウトしにきやがった」

 少し考察してから、朱雀は静かに答えた。

「モデルに? あははっ、こんな面倒なのを?」

「うるせぇな、要は人の目を引けばいいんだろ。ほら、行くぞ」

 カレンの肩を抱いて立ち上がった朱雀は内心、苛立っていた。

 あまりないことだからである。彼が、射程圏内に捉えた得物を逃すことは――――・・・

 

 

 

・・・――――通話を待つ七三の男は逃走しつつも込み上げる期待に胸を躍らせていた。滅多に出会えるものではない、彼のルールを潜り抜ける逸材は。

 2回戦を考えるのはいつぶりであろうか。大抵、初手で落ちる。それが普通である。

 勘付き、潜り抜けたとしか思えないあの男の言動が妄信に等しい確信を彼に与えた。だからこそ、圧倒的な“破壊”をぶつける必要がある、と慢心も捨てた。

「……やぁ、久しぶりだね」

『お久しぶりです。先日は、実に残念な日となりました……』

 受話器越しの男は酷く落ち込んだ声で答えた。

「失ったものは大きい。だが、我々は先に進まなければならない。彼の為にも」

『その通りです。彼の死はまだ、“終わっていない”』

 受話器越しの男の言葉が強いアクセントで締められる。

「結果として。今、君が見ているであろう資料の人物が、“加害者”だと断定できた」

『――――』

「口惜しいよ。目の前にいるのに、私は実に無力だ……いつも、手を下すことができない」

『しかし、あなたは私に報復への力、その道を示してくれた』

「買いかぶらないでくれ。私は、君を信じて祈ることしかできない無力な人間だ」

『あなたの、親友達の祈りと信頼は――私にとって最大の拠り所です……』

 

 ――――“絆に幸運を”、という挨拶で通話は締められた。

 七三の男はしばし肩を震わせた後、一枚のカードを取り出して

「まったく、便利なおままごとだな」

 と、くだらなそうに呟いた。

 七三の男は左側の刈り上げられた頭髪を撫でながら、平日のビジネス街へと紛れていく。

 

 

 観光客に紛れて立つポロシャツの男性は、通話の切れた携帯を仕舞いこんだ。

 平日だというのに人が群がるツインタワー。文明の栄華を背に、誠実そうな男性は歩き始める。

 胸のポケットを大事そうに撫でてから、男性は“双角”の切っ先を道すがらの古めかしいゴミ箱に掠めた。

 

 数分後。古めかしいゴミ箱は亀裂に耐えられず、無残にも崩れ落ちてしまった――――――。

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