$ 女神の古都 $

 

 

 閉ざされた部屋の中で、男は考えていた。

 今までロクに考えてこなかった人生で、始めてこんなにも考えていた。

 

 何もすることが無いから。

 考える以外にすることが無いから、男は考えていた。

 

 

 

Act# /9月10日

 

 ルトブという街は6月になると、11月まで続く長い梅雨に入る。

 

 9月。ルトブは梅雨の只中にあり、石壁の家屋は雨に塗れ、石畳の通りは無数の小川を湛える。

 

 長い月日を雨が穿ち、屋根は窪む。

 雨垂れが街の至る建造物に汚れを残す。

 

 雨雲で見えない日の下では明るい情景が望める訳も無く、道行く少ない人は全て、影が意思を持って歩いているかのように表情が無い。

 

 

 店内に佇むパン屋の店主。

 自我を持たない蝋人形と見紛う。

 

 建物の影に沈む朽ちた木材。

 目を凝らすと、椅子で眠る老婆の姿が浮き上がった。

 

 窓に張り付く雨雫を眺める少女。

 手にしているクマのヌイグルミの目は解れている。

 

 無様なヌイグルミが映るガラス。その下を行くのは1匹のネズミ。

 泥だらけの命は石畳を駆け抜け、やがて小さな隙間をその小さな体ですり抜けた。

 雨音が兆音する広い部屋。“泥だらけ”の視線から見たそれはとても広大で、しかしそれでも魅力は無い。

 

 チーズの欠片とまでは言わなくとも、パスタの1つでも落ちていないものかと泥だらけは鼻と髭を全力にして部屋をくまなく探った。

 

 探ってみて、やはり価値は無かった。

 見つかったのは食べられない金属の突起が4つほどのみ。

 大事な事は食べられない事。

 石の床に付いた黒ずんだ染みには栄養がありそうだが、腹は満たせない。

 

 泥だらけは丸い耳をヒクつかせて別の隙間からそこを出て行った。

 

 2つほど泥だらけは見落としたが、それは高い位置にあるので仕方が無いだろう。

 元より、偽者の金が剥げかかった燭台など、泥だらけには大事では無い物である。

 

 

Act$ /9月9日

 

 “彼”はいつものように家の扉を開け、

 いつもの道順で通りを歩き、

 馴染の店でパンを買う。

 

 何も変わらない彼のいつも。毎日同じ曲を繰り返し演奏する日々――

 何も変わらないはずであった彼のいつもに、聴き慣れない音が紛れ込んだ。

 

    赤く、黒いコートは長く。頭に被るテンガロンハットはツバが広い。

 

 目の前に立つ音は、彼が背負っているギターケースを指差して微笑んだ。

 自分を知っているという言葉に答え、差し出された右手と自分の右手を合わせる。

 

 目深に被った帽子のせいで、音の表情はよく解からない。

 だが、表情が解からないことはルトブの梅雨で珍しいことではない。

 

 手垢だらけの彼の曲も、それが好きだという人間が多いから彼の“いつも”は成り立つ。

 見慣れた町で、見慣れた人種に会った。単純に、ただそれだけのことであった。

Act% /9月11日

 

 使い古された音譜と共に生きている彼にとって、人は音。

 音符の一つ一つ、人間一人一人が集まって曲という世の中は演奏されている。

 演奏しているのは全ての人が織り成す偶然かつ神であり、観客は全ての音そのもの。

 

 道を歩いているとき、電話が掛かってきたとき。

 時折不快な音が発見される。

 

 音楽を扱う人間はそれ以外の人間が行わない演奏という行為を行う。

 不快かそうでないかは奏者の独断。

 その判断に不満があるのならば自ら奏者になればいいだけのこと。

 だれでもできるのにしないだけ。それは奏者としては死人に等しい。

 

 また発見した。

 面倒臭いからと演奏はしないのに、他の奏者の判断に意見する者。

 

 解るわけが無い、判るわけが無い。

 

 生々しく動く口から、

 不快な音は自分の不快さを露骨に表現してくる。

 

 寂れた店内で、

 都会から来たその不快な音は、自信に満ちた表情で得意げにしている。

 

 彼が所有する調律室の床には48cm四方の石板が8m四方の部屋に規則正しく並んでいる。

 暗くて湿気も多く、カビだらけだが、それも丁度良い。

 

 部屋を良く見て、彼の調律を受けて……。

 4つの固定道具に抑えられた不快な音は、正されてから地中に戻される。

 今、彼の目の前にいる音は8枚目の石板の下に埋められることになるだろう。

 

 

 和やかに席を立つ調律者と記者の女性。

 

 彼はいつものように店の扉を開け、

 いつもの道順で通りを歩き、

 人が通らない小道を通って裏口から自宅に入るつもりだった。

 

 何も変わらないはずの彼のいつも。慣れた手つきで楽譜を書き直す予定の編曲者――

 何も変わらないはずであった彼のいつもに、聴き慣れない音が紛れ込んだ。

 

 

    赤く、黒いコートは長く。頭に被るテンガロンハットはツバが広い。

 

 

 目の前に立つ音は店の入り口に立っている。

 先日と変わらない調子で軽く挨拶をしてくる未知の音。

 帽子を目深に被っているが、その口も、目も確認することができた。

 

 その音は、口で笑い、目で言葉を伝えてくる。

 

 

         ―――― 俺はおまえを知っている ――――

 

 

 先日と変わらない調子で右手を差し出してくるその音。

 今日は握れない。その手を掴む事はできない。

 

 不快な音も蔑ろに、耳を塞ぐように店を駆け出る。

 

 いつもの道順で通りを駆け、

 隠れるように小路を通って裏口から自宅に逃げ込む。

 

 地下にある調律室に入り、扉の鍵を閉めた。

 

 カビだらけの暗い部屋に佇み、閉じた扉をただ眺める。

 開くのか、いつ開くのか――

 

 

 

 ――どれほど時間が経ったのか。時計が無いから解らない。

 

 空腹もある、尿意もある。

 だが、彼は扉を開けずにいる。

 

 開いたらばれてしまうのではないか。

 階段の裏に隠されているここへの入り口が開いたら、ばれてしまうのではないか。

 

 今まで行ってきた行為が彼の心を地下室に縛った。

 やがて隙間から差し込む光が消えた後も、彼はその場から動く事ができなかった。

 

 

Act+ /9月12日

 

 閉ざされた部屋の中で彼は考えていた。

 当たり前に演奏をして、当たり前に評価される人生。

 調律を始めたのも、考えたからではなく、当たり前のことだった。

 

 当たり前の楽譜に溢したインクのような音。

 ようやく当たり前は崩れ、彼は当たり前では無いことを考え始めた。

 

 

 何もすることが無い。

 考える以外にすることが無いから、彼は考えている。

 石板の下に埋まっている、置き去りにした不快な音達は何を考えていたのか。

 そう、考えていたはず。

 不快な音に過ぎないそれらも考えていたはず。

 

 自分は今まで何をしてきたのか。

 当たり前は本当に当たり前だったのか。

 

 抑えきれない不安と疑問が鳴り響き、今まで積み重ねた楽譜の山が轟々と燃えて逝くような恐怖が彼に迫る。

 

 どうにもならない、じっとしていられない、確認するしかない――。

 

 暗く、カビだらけの8m四方の地下室。

 規則正しく並んでいる48cmの石板を、角から順番に8枚剥がす。

 

 剥き出しになった土を手で掻き分ける。

 確認したい、確かめたい――。

 泥だらけになった編曲者は必死に掘り進む。

 

 

 やがて、1つ、2つと掘り起こされる頭蓋骨。

 4つ目までは頭蓋骨だった。

 5つ目は頭髪が残り、6つ目には皮膚が残っており、7つ目には……。

 

 

 やつれた歯茎が残っている。斑模様に変色し、所々食い破られた皮膚もある。

 左の眼球は辛うじて判別が出来る。右の窪みに目を凝らすと、小さな影が蠢いている。

 

 死肉に群がる蛆。無数の蛆に食い荒らされている死肉。

 

 掘り起こした土を見ると、そこにも小さな影が蠢いている。

 僅かな違和感に視線を移す。そこには左の手の甲を這い上がってくる1匹。

 

 彼は左手の小さなそれを怯えながら振り払った。

 

 

 自分まで食い荒らされる。

 掘り起こした穴からそれらが這い出して、自分の体を這い上がってくる――。

 

 次の石板を掘り起こすことなど思いつくまでもなく、彼は逃げ出した。

 扉に向かって、この暗い部屋から出るために。

 

 上がってなど来ない。

 死肉を食む無数の蛆は生きる者にわざわざ迫りはしない。

 しかたがない。彼には思えたのだ、それらは自分を食い尽くすのだ、と。

 

 揺れて定まらない視界と手元。

 一度鍵を落とすと簡単には行方が知れない。

 暗闇にも、死肉は見えたのに。

 暗闇にも、無数の蛆は見えたのに。

 

 足元や背後をしきりに気にしながら手探りに探り、どうにか見つけた鍵。

 

 死ぬ、食い殺される。無数の蛆にたかられて、生きたまま肉を齧り取られる。

 耳を通って脳を食い破られる。視力のあるまま、眼球を削られる。

 どれほどかかるか。死ぬのにどれほどかかるのか。

 

 助けてくれと、全て謝るからと、神と世界の全てに懇願する。

 編曲者などではなかった、自分はただ、人間であった。

 人間はただの音ではなかった。不快な音も同じく、人間であった。

 

 何でもするから、自分を安心させてくれ。安息を、いつもを、再びを返してくれと。

 彼は願いながら鍵を開き、地下の扉を開いた。

 

 廊下の先には仄かに照らされたリビング――。

 

 

  その人間はふてぶてしくもリビングの椅子に腰掛け、煙草の煙を吐き出している。

 

 

 勝手に用意した珈琲。

 その珈琲を一口含み、喉を通す。

 カップをテーブルに置き、取り出した小さなケースに吸殻を入れる。

 

 立ち上がって椅子を引きずるようにテーブルの下に戻す。

 右手をコートの裏に入れ、青く光る銃器を取り出す。

 赤く、黒いコートは長く。頭に被るテンガロンハットはツバが広い。

 

 

 編曲者は涙する。涙を流して膝を着き、両手を合わせて懇願する。

 

 テンガロンハットの男は変わらぬ様子で銃口に筒状の装置を取り付けている。

 歩み寄ってくるその男が怖くて、編曲者の彼は赤子の様に這い蹲って逃げ惑う。

 暗い部屋に入り、扉を閉める。

 思い出して振り返るとそこには掘り起こされた穴。

 先程見た悲惨な人間の姿を思い出して、逃げ出すために扉を開いた。

 

 開くと、そこには赤黒い長いコート。

 見上げると、そこにはツバの広いテンガロンハットを被った男。

 

「っっっ! ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい!!」

 

 悪戯を咎められ、泣き叫ぶ子供のように。編曲者はひたすらに謝った。

 改心する。これからは人の為に生きる。きっと社会の役にたってみせる。

 そんな、様々な誓いを込めた言葉。

 

 豊富な意味を込めた言葉だが、しかし、肝心な種類のものが含まれていない。

 そして、それが含まれていたところで、何がどう変わるということもありえない。

 

 地下室に兆音する、押し殺された銃声。

 それから少ししてから――――地下室の扉は閉じられた。

 

 音に死体など残るはずも無い。

 そんなことも知らず、確認するまで理解できなかった音楽家。

 彼の死骸はそれから2週間後、近隣住人による異臭の通報によってようやく発見されることになる。

 

 

 

 

 9月13日。

 “涙の古都”ルトブには、変わらず雨が降り注いでいる。

 かつて愛する者を失い、流れた涙によって人になった女神が見守るとされる町。

 

 町の中央で濡れている女神像の衣の影には、一服ふかす男の姿。その姿を数少ない通り人が嫌悪の表情で見ているが、男は一向に気にすることもなく、女神像に煙を吹きかけた。

 

 赤黒いロングコートを着たその男は、ツバの広いテンガロンハットが特徴的である――。

 

                              

 涙の町 :End