$ シンパシー号 $
Act1
大海に浮ぶ豪華客船。全長312mの巨体が濃紺の船底で海面を割いて往く。バーナー社のフラッグシップである“シンパシー号”の白い壁面には無数の窓がある。全部屋にTV、ベッドはもちろんのこと冷蔵庫・バスタブ・シャワーブースにベランダを設けた海上の高級観光ホテル、それがシンパシー号。
普段は様々な(お金持ち)客層を乗せて、彼らが持つ使いようが無いほどの時間と金にとりあえずの使い道を提供しているこの船。今回の航海はそんないつもと異なり、“ナイル社”が主催するパーティーの貸しきり会場となっている。
リングランド−ジャスティア間を渡る航海に688人の乗客が迎えられた。これでも普段の2000人超を考えれば少ない客数。だが、その分各人への細かいサービスが要求されている為、乗員はちっとも楽では無い。
カジノにフィットネスクラブにプールにプラネタリウムに劇場、美容サロン、パブ、ショッピングモール。著名なフランツ人シェフ、パトリック・ロッティ監修のレストラン。
最近カラオケ施設と巨大スクリーンを有する映画館が増設され、近年改装して1階増やし、フットサルフィールドを作る予定。広大なグランドロビーでは、今夜行われるパーティーの準備が行われている……。
――書き出すだけで疲れる接客施設の数々。そこらの都市より施設の種類が多い。あとはコンビニなどがあるといいなぁ……などと考える人はこの船に1人しか乗っていないので問題無い。
細かいものを除いてもこの施設数なので、そのサービスたるや尋常ではないことがお解かりいただけるだろう。
船体の左舷。地上の建造物でいえば1階にあたる上甲板で甲板手達がテキパキと作業をこなしている。甲板の清掃、ペンキの塗り替え、施設案内。やることは無数に存在しているので、効率の良い作業は必須だ。
船内の“街中”のような騒がしい空気と異なり、甲板上は静かに景色を眺めたり、軽いトークを楽しむ“公園”のような和やかな空気で満ちている。
ふにゃりと手すりに寄り掛かる1人の女性。喧しい程美しいドレスや不必要にオプションが多いドレスを着た淑女が溢れる船に珍しく、この女性は赤いスーツを着ている。
先ほど、
「ちょいと船員さん。フィットネスクラブに案内してくださいな」
などと恰幅の良いマダムが間違えたのも無理はない。
豪華客船には何でも揃っている……高級品が。
便利な事は良いことだが、ここの便利は“高山 奈由美(タカヤマ ナユミ)”が求める便利さとは違う。
周囲の華やかなマダムをちらちらと居心地が悪そうに眺め、視線を遠い地平線に向ける。
「うまうま棒とカリカリ君が恋しいなぁ……」
赤いスーツに付いている袖先のボタンを弄りながら、奈由美はひもじい愚痴を溢した。
「船員さん。ロッティ氏のレストランはどこかしら?」
気品ある声が赤いスーツの背中を撫でる。「またか……」と奈由美は振り返った。
「すみませんが、私は船員じゃないんです――」
申し訳なさと面倒臭さが入り混じった複雑な表情で俯き加減に答える。
「解っているわよ、そんなこと」
もじもじと答える奈由美の額を小突いて、その女性はニコリと微笑んだ。
黒色のドレスに金のネックレスと腕輪。色のコントラストでアクセサリーが目立っている。奈由美と同じく短めの金髪だが、これは彼女に憧れて奈由美がその髪形を真似たので当然のこと。
微笑む彼女の顔を確認して、奈由美は安堵した様子で息を小さく吐き出す。
「ネフィスさん、普通に声を掛けてくださいよ」
奈由美は明るい表情を黒いドレスの女性に向けた――――。
Act2
“ネフィス・ロイ”という女性はかつて世界を掌握していた組織の戦闘部署に所属していた。
最高幹部の1人であり、現場・デスクともに有能な人物として組織内外から高い評価を得ていた彼女は組織崩壊後、実質上の庸兵集団である人材派遣会社と通常の人材派遣会社を併設。その後経営陣から外れて総合指南人の位置に身を潜めた。
個人事業では人気軍事アドバイザーとして各地から引く手数多な状態。例え軍事力を持たない一般企業でも、彼女の持つ多様な情報と高度な見解を求めて一見を求めるケースが後を絶たない。
ネットでの書籍販売を足がかりに急成長し、今では多岐に渡るジャンルの商品を扱うネット上の一般向け商品販売事業最大手、ナイル社。
今回の航海を主催したこの企業もネフィスの世話になったことがあり、また、“彼女が来る”というだけで乗船を希望する人間も存在するので、彼女を特別ゲストの1人として今回の航海に招待した…………と、これが表向きの理由。
ナイル社としてもそれがメインなのだが、もう1つの「備え」としての依頼も彼女に行っており、信用できる“護衛”の同席も求めた。
とはいえあくまで「万が一」への備えなので危険は少ない。しかも会場は豪華客船――どうせならば面白そうなメンバーを引き連れたいものだなぁ……と、ネフィス・ロイは真っ先に思いついた“彼ら”をリーダー込みで招待することにした。
船内のカジノ。大衆向けの客船にあるカジノは低い料金を補う施設としてこれを設けているが、バーナー社はラグジュアリー(豪華客船の最上ランク)に分類される客船を航行させている。シンパシー号も当然これに該当していて、それのカジノは料金回収の目的も当然持つが、どちらかというと“賭け”より“遊び”に近いものとなっている。
とはいえ、そもそも乗客が数万$負けても「Ahaha、負けちゃったよハニー」などと気楽に笑っていられる連中なので、動く金は大きい。
公演されていない舞台を望むことが出来るカジノスペース。夜は併設されているパブなどと連携し、ナイトタイムと称して、各テーブルが繁華街に並ぶ店のように暗がりに照らし出される。
現在はまだ昼なので、ショッピングなどの後に余った小金で遊ぶ軽い雰囲気がカジノに満ちている。テーブルでギャンブルに興じる人々も和やかに、勝負金額も軽い。人は明るい空間では中々本性を表さないものだ。
シャンパン片手に麗しき女性や連れの男性が「うふふ」「ははは」と微笑み合っている各種テーブルの1つ。一際賑やかなポーカーテーブルにはカードゲームに興じるタキシード姿の男と、その様子を騒ぎながら見守る3人の若い女性の姿がある。
茶色の前髪をかき上げて、顔立ちの良い青年が言い放つ。
「――フォー・オブ・ア・カインド」
パサリとテーブルに倒される5枚のトランプ。その内4枚は「J」である。
「……“ボート”で御座います」
ディーラーは自分の札を見せてタキシードの男に確認をとった。ディーラーの手札は3枚の「5」と2枚の「K」の組み合わせ。
ディーラーはベットされていた黒色のチップを全て男に渡した。
タキシードの男の横には積みに積まれたチップの山。黒色と緑色と赤と白で構成されたそれにさらに黒色のチップ群が加わる。
「凄いわ、また勝ったわ!」
「魔法みたいね。あなたったらギャンブルがお得意なの?」
3人組みの若い女性達はチップを積み上げる男の肩に寄り添って質問した。胸元にあるフリフリはまるでレタス。
「……勝利の女神が3人も見守ってくれていたら、勝って当然さ」
男の言葉に更にテンションを上げる女性達。
黄色い声援を背に、男はチラリと広い赤絨毯の階段を見た。そこを歩く1人の女をその目に捉え、立ち上がる。
「君たち、良かったら僕の代わりに遊んでいきなよ。このチップは僕を応援してくれたプレゼントだ」
赤いチップを1枚だけ手に取って、残った山のようなチップを指差す男。
3人組みの女性たちは顔を見合わせた後、キャーキャーと高い声を発しながら手を合わせた。
上機嫌に階段で見つけた女に近づく男。女も彼を目指していたらしく、真っ直ぐに近づいてきた。黒色のドレスに金のアクセサリーが目立つ女は、ただそこにいるだけで周囲の男性を振り向かせる。
「シェフには会えたんですか、ロイの姉さん」
指下で赤いチップをクルクルと回すタキシードの男。
「その呼び方は止めてよね、朱雀君」
ネフィス・ロイは眉を顰めた笑みで答えた。
「すいませんね、“ネフィス”さん。その様子だとダメだったみたいっすね?」
愉快そうに笑う朱雀。窮屈なタキシードの蝶ネクタイを外してポケットに仕舞う。ネフィスは「会えたんだけどねぇ……」と残念そうに呟いた。
2人はカジノスペースから出て、地平線を望めるテーブルに座った。「カフェ」という区切りは無くとも、至る所に設置されているテーブルのボタンを押せば、どこでもドリンクを注文可能。言ってみれば船全体が「シンパシーカフェ」である。
ボタンは押さずに椅子に座る2人。
「何か頼みます?」
「いいわ。少ししたら人と会う予定があるから……」
ネフィスは分刻みの多忙なスケジュールに若干疲れているらしい。気品に溢れていた表情が、明らかに「疲れた……」という溜息交じりの表情に変化した。
「大変ですねぇ――夜までそんな調子ですか?」
「そうね、あと8年ってところかしら……」
鞘に収まった剣の柄に手を置いた時点で斬られる会話。朱雀は「ちぇっ」と口を尖らせて手元のチップを指で打ち上げた。
「やることはやったんでしょうね?」
どうも一応は仕事中だという認識が感じられない朱雀に、ネフィスは少し厳しい表情で聞く。
「やることも何も、まだ昼間じゃないっすか」
朱雀はイジケた様子でまだ口を尖らせている。
「それじゃなくて、お仕事よ」
「え? ……ああ、それなら。今夜の舞台は“バッチリ”みたいですよ」
「――そう。何人くらい出演しそうなの?」
「今のところ18人かな」
ちゃんと仕事はしている様子なので、ようやく安堵するネフィス。センスと技術は問題ないが、精神面にまだ難があると目の前の“少年”を分析した。
「それは良いとして、あなた何でギャンブルなんかしているのよ」
「何でって――暇だから?」
朱雀は右手で弾いたチップを掴み、すぐに握った手を開いた。開いた右手の人差し指と中指には、「◇のJ」が挟まれている。
「仕事中に堂々と“暇”と言うのはこの際許す。でも、大事なお姫様を放っておくのはマズイんじゃない?」
ネフィスに奪われる◇のJ。朱雀は「ヤベェ」という心境アリアリな笑みを浮かべた。
「ア〜……あいつ、今どこにいます?」
「左舷甲板に行けば簡単に発見できるわよ。1人きりで寂しく海を眺める女の子がね」
冷たい視線を送ってくるネフィス。それに耐え切れず、朱雀は頬杖をついて少しだけ顔を隠した。
「ダメじゃないの。彼女はこういう場に慣れてないんだからあなたがエスコートしてあげないと……。大体、なんでスーツで来させたのよ。ドレスの1つでも買ってあげなさいな」
「――あいつには早いんすよ、ここは。その辺のファミレスがあいつの適所です」
母親に叱られる少年のように若干反論する朱雀。だが、それは反論というより身代わりを立てる逃げに過ぎない。
「だからこそ、いいトコを見せるチャンスなんじゃないの。――これじゃぁ、君たちを呼んだ甲斐が無いわ」
そう言って立ち上がるネフィスの言葉に「え?」と小さく聞き返す。◇のJがテーブルにヒラリと落とされた。
「君たちといえば、“サムライシェフ”はどうしているの?」
振り返ってもう1人の客人について聞くネフィス。
「――ああ、あいつは部屋で療養してます」
「療養?」
「風邪ひきやがったんですよ、あいつ……」
上の空で答える朱雀。
彼はテーブルに落ちた◇のJを手にして、じっとそれを見つめていた――――。
Act3
海が見える。設備が整った最高級客船の船室からは、晴れ渡る快晴の下に広がる海が見えている。
各客室には上質な紅茶の葉と珈琲豆が用意されており、茶入れの設備も充実。
冷蔵庫には各種ソフトドリンクと各国のビール。その上の専用棚では開封を待つワインたちが横たわっている。
「エホッ、エホン……!」
テーブルに置かれた風邪用マスクと体温計。部屋には簡易な医療品も用意されていて、そのサービスのキメ細かさを感じさせる。
「エフッ、ゲホホン! ゴホッゲホッ――――ふぅ……」
咳がひと段落したのを見計らって熱々の緑茶をシュルシュルとすする。サービスに文句があるとすれば、もう少し東洋人にも目を向けて欲しいところ。今回は着物の袖に残っていた1枚のインスタントグリーンティーに心を救われた。
青い髪の侍は部屋で1人、正座をして貴重な緑茶で喉を潤す。やはり風邪には緑茶が効く……と思うのは東洋人の幻想であろうか。
いつ、何が起きるか解らないとは聞かされているので、こうして体力を温存する風邪ひき侍。
その強面も、今日ばかりは情けないものに感じられる――。
Act4
窓の外は暗がり。設備が整った最高級客船の船室からは、真っ暗な闇に沈む世界が見える。波の盛り上がった部分に月の光が反射しなければ、それが何なのかすらもわからないだろう。
時刻は19時前。客室に用意されていたレモンソーダを飲むワイシャツ姿の女。これほどのサービスに慣れていない奈由美は冷蔵庫を開けたとき「え、これってお金いらないの!?」と、サービスされた豊富なドリンクの数に驚いた。
“ピコピコ”
テーブルに置かれた布製・厚手の小さな保護ケース。今更“ピコピコ”も無いだろうが、ジャパン製ポータブルゲーム機のゲーム音が寂しく部屋に鳴っている。
“デッデ〜ン↓”
低い音調が響くと、「もぉっ!」と奈由美は小さな液晶画面に文句を言った。
“コン・コン”
部屋のドアが軽く打ち鳴らされた。画面から目を離してドアを気にする。
『ナユ、もうすぐパーティが始まるんだが……』
ドア越しに聞こえてきたのはあいつの声。ムスッとした表情で視線を液晶画面に戻した。
『……寝てるのか?』
更に聞こえる声。奈由美は大きな溜息を吐いて
「起きてます!」
とハッキリした口調で答えた。
『――っと。つまり行く気は無いと?』
どうやらドア越しにそいつも溜息を吐いたらしい。そんな気配を感じ取ってさらに目を細める。
「お腹減ってないし、後23ターンあるし……」
好調なゲーム画面には、パーティー型ボードゲームの盤面。人間1人とCPU3人による淋しいバトルが繰り広げられている。
『ターンって……ここまで来て何やってんだよ』
呆れた奴の口調に「あんたこそ何してたのよ!」と言い返したくなったが、それは“負け”を意味するような気がしたからやめた。
『まぁ、いいか。どうせ“来るな”と言いに来たんだし、ちょうどいいや』
ピタリと指が止まる。画面を見てはいるが、なんだか“とんでもなく腹が立つ”言葉を言われてしまったので、頭が真っ白になっている。
『とりあえず、何があっても出てくるなよ。大人しくCPUと戯れてなさいな』
その言葉を残して、ドアの先にあった気配は消えた。遠ざかっていくあの野郎の足音が微かに聞こえる。
最後に言っていた言葉は耳に入っていない。ただ、“来るな”と言われたのが悔しくて、どうしようもなく切なくて……。
そんなに自分は田舎臭いのかと。そんなに自分はみすぼらしいのかと。そんんなにも、自分はこの場に不釣合いなのかぁっ!!! ――と。
ポタポタと液晶画面に落ちる雫。
喉に何かが詰まっているかのように息苦しい。
ぶっきらぼうなあいつの言葉が頭を離れない――。
声を押し殺して涙を堪える。「コレじゃダメだ!」とワイシャツの袖先で涙を拭い、パタリと小型ゲーム機を閉じた。
『予備のドレスがあるから、貸してあげるわよ』
尊敬する女性の言葉が思い出される。「スーツも着慣れないのに、ましてやドレスなんて……」と拒む奈由美に、カッコイイその人は言った。
『いいから着て来なさいって。――夜までまだ時間があるわ。今のうちに、あいつに“女の子”を見せつけちゃいなさいよ』
そんな無茶な、と戸惑う奈由美を引きずるように部屋へと連れて行ったその女性。そして押し付けるように渡された薄いピンク色のドレス。
パーティー用なのかウェディング用なのかと、それらに疎い奈由美は受け取ったドレスをマジマジと眺めた。「自分には派手すぎる……」「こんなの柄じゃない……」眺めるだけでそんな言葉がぐるぐると頭を駆け回る。
『いいの? いつまでも子供扱いされていて――――見返したいんでしょ?』
強気なその言葉を思い出して、奈由美は顔を上げた。既に時間帯は夜だが、メインはこれからのハズ。
視線の先には最高級なふかふかベッド。
そこには、薄いピンク色をしたドレスという名の“戦闘服”が安置されている――――。
Act5
『皆様、我がナイル社主催のパーティーにお越しいただき、誠にありがとう御座います。
当客船の使用を快諾してくれ、素晴らしいサービスを提供してくださっているバーナー社代表、ワン(湾)氏にも盛大な感謝を!』
壇上の2人に拍手喝采が降り注いだ。
視線を一手に受けて立つ男性は、景気が良いノリで総勢900人近い金持ち集団に言葉を繰り出していく。テンポが良い男性の語りで、グランドロビーは大いに盛り上がった。
挨拶も20分程で済み、この航海3度目にして今回のメインであるパーティーは問題なく開始された。
ナイル社の大いなる躍進と皆様方への感謝を表すため――という名目のパーティーだが、つまり要約すればどちらも「〜を望む」である。「ナイル社の更なる躍進を望むため、皆様方のさらなる協力を求めます!」というちらつくサブタイも、参加者達にとっては百も承知の事。壮大で絢爛な社交パーティーは乗客のほとんどを集めて行われた。
都心のスクランブル交差点より騒がしい会場の中央で、次から次へと入れ替わる人間の対応をするネフィス。“無料”で彼女と話せる機会は貴重だ。
粗方話し終えた後、隙を見て「ちょっと化粧を直しに……」とその場を離れる。
気品ある表情で道過がる人間に挨拶を繰り返さなければならないので、5m進むのに1分以上かかる。
たかでさえ広い会場。
パレードのように人を引き連れながらの進行は、20分程の時を経てようやく一段楽した。
辿り着いた会場の角。そこでは隠れるように壁に寄り掛かっているタキシードを着た青年の姿がある。朱雀はニヤニヤと笑みを浮かべながらネフィスを迎えた。
「華麗なパレードでしたね。おもちゃのマーチでも演奏すればよかったかな?」
愉快気にそう言った朱雀の蝶ネクタイを強く掴み、ギリギリまで顔を近づけるネフィス。
「朱雀君。戦争――始めちゃっていいかな?」
ニッコリとした笑顔だが、そこに気品は無い。こめかみに血管を浮き上がらせて、ネフィスは更に蝶ネクタイを引き寄せた。
ほとんど頭突きされるように額と額がぶつかる。ネフィスほどに上等な女性の顔が近づけば本来、辛抱堪らないところだろう。しかし、素が出ている彼女の危険性は充分承知なので、朱雀は冷や汗をかいて彼女をなだめる。
「勘弁してくださいよ、ネフィスさん。止める側のあんたがおっぱじめてどうすんすか」
その言葉と困る朱雀の表情で満足したのか、ネフィスは蝶ネクタイを離して、気品溢れる笑顔を再び作った。
「うふふ、御免なさいね」
「――ったく。で、舞台の話ですけど、ちょっと誤算ありです」
猫の皮を被ったかのように豹変したネフィスに呆れながら、朱雀はチラチラと周囲に目を配る。
「誤算?」
口に指を置いて首を傾げるネフィス。
「ええ。18人って言いましたが、どうやら出演者は30人強ってところです。こっちは俺らだけですか?」
真剣な表情で今夜の“舞台”について話す朱雀。
「プラス私の護衛が10人。全員会場に配備してるけど、他にも回したほうがいいかしら」
ネフィスはドレスから黒色の携帯電話を取り出した。
「いや、それで都合がいい。良かった、それだけいれば相手不足に悩める……」
「ここ(会場)だけじゃないでしょ?」
「ほぼ完全にターゲットはここに絞ってます。数人客室の監視に向かうようですが、そこは青龍を向かわせますんで……」
朱雀も携帯を取り出して状況の説明を続ける。
「あとは――――」
“ドォォォォォッ――――ン!!!”
轟く爆音。文字通り、“爆発”の音だ。
騒然とする会場。それを見計らったかのように会場の扉が全て閉じられる。
“ガガガガガッッッッ!!”
会場を貫く機関銃の銃声。
『黙りやがれッッッ、動いた奴から撃ち殺す!!!』
それの直後に拡声器を通して発せられたガナリ声が木霊する。
舞台の上で拡声器片手に会場を制する、眼帯を付けた筋肉質な男。その周囲には4人程の護衛がついている。
『これよりこの船は我ら“遺産の守り手”が支配する! 反抗する者は弾丸でバラバラの肉塊にして吹き飛ばすゾッッ!』
響き渡る男の声に震え上がり、呆然となる客人達。
会場に点在している小脇に銃火器を抱えた20人程のテロリストが応じるように周囲の人間を恐怖で黙らせた。
悲鳴と銃声が響く会場の一角。タキシードと黒色のドレスに身を包んだ2人は顔を見合わせる。
「……それで、さっき言おうとしたことは何?」
携帯を仕舞い、右耳にある装置から小さなマイクを引き出すネフィス。
「ロイの姉さん、“パーティーの準備はできていますか?”――って」
携帯を仕舞い、タキシードの裏地に右手を突っ込む。
「フフっ……どう、このドレス。素敵でしょ?」
そう言ってネフィスは黒いドレスのスカート部分をチラリと捲った。
「――ええ、素敵なドレスですね。最高だ」
彼女の艶やかな太ももにあるそれを確認して、朱雀は不敵に笑う。
「それはいいとして。“ロイの姉さん”って呼び方、やめてって言ったわよね!」
ビシリと人差し指を突きつけて忠告する。ネフィスはその呼び名が相当気に入らないらしい。
「はいはい。わかりましたよ、ネフィスさん――――」
その言葉がネフィスの耳に届く頃。朱雀の姿は彼女の視界から消え失せていた。
会場の影から影、人の背後から背後へと高速で駆け抜けていく雷光のようなタキシード。
ネフィスは腿に隠した拳銃を手に取り、小型のマイクで何かを指令した。
指令に応じて会場に配された10人の軍人崩れが一斉に正装を解く。幾多の死線を乗り越えた精鋭兵士達は偽りを脱ぎ去り、本性を露にした。
それと同時の瞬間。
壇上では眼帯の男を守るテロリスト達が、鮮血を放出して次々と倒れていた――――。
Act5
鏡に映る自分。さすがパーティーの会場となる客船だけあって、船室には全身を映せる鏡が備え付けられている。
これで良いのかと思うくらいフリフリした布がそこらじゅうに付いていて、邪魔になるのではと思うくらい、余分なパーツが多いピンクのドレス。
「アハハっ……」
鏡の中の自分に渇いた笑い声を送る。色々とポーズをとってみるが、どうにもしっくりとこないような――。
着るのに手間取ったこともあり、なかなか会場に向かう勇気が出てこない。
時間は非情で、経過するごとに容赦なく奈由美の決心を奪っていく。
「やっぱり大人しく……」
弱気が口を出そうになった時。ドレスを貸してくれたあの人の声が脳裏をよぎった。
一度目を閉じて気持ちをリセット。
再び目を開くと、鏡の世界で奈由美を見つめる彼女自身の姿がある。船にはドレスを軽々と着こなし、軽快なお喋りを交わす女性が大勢乗っている。彼女たちは高級な食材にいちいち呆けることもなく、平然とした顔でそれを食べ、長ったらしい名前のお酒を注文して互いの知識を比べたりもしているだろう。
だから、何だというのだ。
同じ女だ。自分だって、実はこういうドレスに憧れていたりする女なのだ。子供じゃなくて、女として褒めたり接して欲しいと思って何が悪い!
――――今頃、馬鹿みたいな顔して女の子に声をかけているであろう、あいつの姿を鏡に映して。奈由美はそれを「フンッ」と鼻で嘲笑った。
“ドォォォォォッ――――ン!!!”
轟く重低音。パーティーのイベントで花火でも打ち上げたのであろうか?
“ぐあぁぁぁあぁあぁ……”
船のどこかから男性の悲鳴が聞こえてくる。
今回の「万が一」を聞かされていた奈由美は、今、その「万が一」が起きたのだと予想した。そしてその予想は正しい。実際、その頃のパーティー会場は阿鼻叫喚の地獄絵図状態にある。
仮にも四聖獣をまとめるリーダー“黄龍”である彼女は、クローゼットにしまったスーツから未だに使ったことがない護身用の小さな拳銃を取り出し、ドレス姿のまま船室を飛び出した――――。
Act6
一度は静まったものの、客室が並ぶ廊下を抜けた頃には再び銃声・悲鳴が船内に響き渡った。
奈由美は周囲をキョロキョロ見渡しながら、隙まみれの動きで慌ただしくグランドロビーを目指す。誰1人として出会わないまま、やがて彼女はパーティー会場の入り口の1つに辿り着いた。
赤色の扉は閉ざされている。
「んっ――」
重そうな扉なので力を入れて引っ張ったが、全然開かない。
扉の先からは悲鳴と銃声が聞こえてくる。
「よ〜し……」
気合を入れて、大胆に足を扉に引っ掛けてグイグイ引っ張る。乙女としてあるまじき動作だが、今はそれどころではない。
「ん・ぬうぃしょぉぉぉぉぉー!!」
唸ってみても開かないものは開かない。何せ鍵が掛かっているから。
そろそろ彼女の腕力が限界を迎えようとしたとき――
“ダァンッ!”
豪快に開かれる扉。その場にひっくり返る奈由美。大慌てでドレスの裾を押さえる。
扉の突然な解放に驚いて見上げると、そこには息を切らした筋肉質な男の姿。傷だらけの顔面には眼帯。
「くそっ、化け物共が……っ」
そう言って逃げようとした彼の視界に飛び込むピンクのドレスを着た少女。
何か危険な気がしたので護身用の銃を構えようとするが、無いものは無い。何せ転んだ拍子に手元を離れて1mほど飛んでいったから。
それにしても……なんと手ごろな“人質要員”であろうか。
筋肉質な男は「コレだ!」とばかりに奈由美の腕を掴み上げた。
「いたたっ――」
「てめぇは人質だ。抵抗したら頭ブチ抜くからなっ!!」
痛がる奈由美を抱え上げ、額に大型拳銃の銃口を突きつける。
「うそぉ……」
現実を信じきれない奈由美を連れて、筋肉質な男はその場を離れた。
開かれた扉から出てくるタキシードの男。既に会場内のテロリストは鎮圧に成功。後は首謀者である人物を捕らえるだけだったのだが……。
廊下に置き去られた見覚えがある小型の拳銃。それは昔、彼が彼女にプレゼント(投げつけるように)した物と同じ型の拳銃――――。
Act7
豪華客船の暗い一室。華やかな表舞台と違って、裏方にある施設は軒並み地味で無骨である。
ダンボールに詰め込まれた食材が壁のように並ぶその倉庫で、筋肉質な男は息を切らしてこれからどうするかを考えていた。左腕に抱えるドレスの少女は怯えているのか呆けているのか。何も言わずに見慣れない空間を見渡している。
「畜生、畜生!」
考えれば考えるほどどうにもならない。会場の部下は全て捕まった。他に配備したハズの部下にも連絡が取れない。残ったのはどうやら自分1人――。こんなハズではなかった、どうしてこうなった、と後悔しても後の祭りである。
「あ、あのぅ……」
恐る恐る少女が声をかけた。
「何だ!」
銃口を押し付けて脅すように返す筋肉質な男。
「イっ! ……いや、あの、こんなことしないで大人しく捕まった方がよろしいのでは……なんて」
エヘヘと引きつった笑顔で捕らわれの奈由美は弱々しい忠告をした。
「大人しくだぁ??」
眉毛を下げ、歯を食いしばった口を開いて顔を寄せる筋肉質。息も臭いがそれよりも脇が臭いので今更気にならない。
「ど、どうせこのままじゃ捕まってしまいますし……どうせなら健康なまま捕まった方が後々よろしいのではと……」
奈由美の言う事はもっともである。とりあえず死ぬ気は無い筋肉質は暗い天井を見上げて考え始めた。
暫く黙った後、筋肉質は「そうだな……」と前向きな答えを呟く。
「ほっ」と息を吐く奈由美。
「どうせ捕まって生涯監獄暮らしなら、健康な内に性欲を発散しておいた方がいいな……」
奈由美の顔をぐいっと掴む筋肉質。「うぇぇ!?」と奈由美は驚愕してその顔を見た。エラが張った傷だらけのゴツゴツが広げた鼻から息を吐き出す。
「人生最後のSEXかもな……。追っ手が来る前に堪能しちまわねぇと――」
腕力で強引に奈由美を組み伏せながら、筋肉質はズボンのチャックを荒々しく下げた。
「そ、そういうことじゃっ……! い、一生監獄だなんて解らないじゃないですよ!?」
混乱しながらも両腕で抵抗するが、筋肉質の体は少しも離れない。
ピンクのドレスを掴む筋肉質。
“こんなことの為にドレスを着たんじゃない! ただ、あいつに見て欲しいからっ―――”
ただならない危険に奈由美の体が拒否反応をおこす。反射的に太ももを閉じるが、それも強引に開こうとする筋肉質。
17才の初々しい体に興奮したのか、現状に自棄を起こしたのか。筋肉質は奈由美をただの“性欲を発散する物”として、乱暴に、勢い良くドレスを引き裂こうと腕に力を込めた――――
『そいつから離れろや、腐れ眼帯……』
狭い倉庫に重く響いた男の声。
脳天を貫かれるような視線を感じて、筋肉質な男は倉庫の入り口に顔を向けた。
倉庫の入り口に立つタキシード姿の男。瞳孔を尖らせた瞳は、目を合わせたものの心臓を萎縮させる程に鋭い。
右手には41口径のデザートイーグル。銃口は既に対象を捉えている。
「スザ君……」
佇むその姿を見て、奈由美の怯えていた瞳から涙が溢れ出した。
彼女の涙が、朱雀の両眼を一層鋭く、厳しく研ぎ澄ます。
自分の死に様が鮮明に脳裏を通過して、筋肉質の男は細かく歯を打ち鳴らした。
「……お、おろせぇっ! じゅっ、銃を降ろすんだよぉぉっ! こっちには人質――」
“ガウンッッ――!!”
筋肉質な男の言葉を無視する銃声。
「――――あ、アア……ああっ、亜っっっぎゃああああぁぁぁ亜ッッッ!!!!!!」
絶叫しながら右手を押さえる筋肉質な男。手を離れた大型の拳銃は倉庫の床にゴツリと落ちた。飛び散った血が少し、借り物のドレスの裾に付く。
「バァカか。引き金引くのなんざ、“あっ”と言う間より早ええんだぜ? どんだけ喋ってんだ、脳筋達磨」
左目を引きつらせて。朱雀はマグナムの弾丸で全身を弾き飛ばしてやりたいそれを見た。
抉られた右腕に苦痛しながらも、筋肉質な男は床に落ちた拳銃を左手で拾おうとする。
筋肉質な顔面に衝撃――。
靴底の跡が付いた顔は歪み、筋肉質な男は仰向けに倒れた。
「――よう」
「ヒっ!」
“ドカリ”と逞しい胸筋の上に座り込む朱雀。筋肉質な男の口にまだ発砲の熱が冷めていない拳銃の銃口が突っ込まれる。
朱雀は不敵な笑みを浮かべて傷だらけの顔を見下ろした。
「おっさん何歳だ? 40くらい? まぁ、とりあえず今まで長い人生ご苦労様。これからあんたに“2秒”あげるからさ、できるだけ楽しかった記憶を思い出しなよ」
「……?? ――――っっっ!!」
立てたれる朱雀の2本の指。筋肉質な男はその意味を理解して目を見開いた。
言われて人生の記憶が甦るかというと、そうもいかない。頭の中はただ、「死にたくない」「まだ生きたい」である。
立てられた2本の指が順番に畳まれる……。
「はい、終了〜。人生お疲れ様でした! バぁイバ〜イ」
「うご、うんがぁぁぁぁっ!!」
加えさせられた銃口で命乞いもできずに、筋肉質な男は人生の最後を宣告された――。
“ばぁんっ!!”
倉庫に響く音。それは銃声を真似た朱雀の声。
偽りの銃声を聴いて、筋肉質な男は白目を向いて気絶した。
「バカめ、撃つかよ。……撃ちたいけど」
拳銃をタキシードの裏地に仕舞って、朱雀はつまらなそうに頭を掻いた。
視線をズラすと、泡を吹いている男の横に座り込む女の姿がある。
「“部屋を出るな”と言ったのに……ったく」
ボソリと愚痴を溢すその姿を、奈由美は呆然と見上げている。
「ほら、行くぞ」
朱雀は言い捨てるように奈由美を促した。
「そうしたいんだけどね……腰が抜けちゃって」
こういう凄惨な景色が始めてという訳でもないが、もろもろ重なって彼女の体は硬直してしまっているらしい。
「テヘへ」と頭を掻く彼女の手を面倒臭そうに取って引き起こす。
「――行くぞ」
「う、うん……」
端的な会話を交わして歩き出す朱雀。その後姿を見て、奈由美は寂しげな表情で視線を落とした。
「――あれ?」
振り返る。そこには見慣れたハズの奈由美がいるのだが……違和感。
「お前、ドレスなんか持って来てたっけ」
突然気がつかれて動転する奈由美の思考。
「も、持ってきた……んじゃなくて。借りたの、ネフィスさんに」
「……ほほぉう。なるほどね」
昼間の会話を思い出して「あの人も面倒な性格だな」と、ニヤけるネフィスの顔を思い浮かべた。
「でも、汚しちゃったな。どうしよう……」
ドレスの裾に付いた血痕を見て残念そうに呟く。困ったというより“残念”な表情の彼女を見て朱雀は
「どうしようも無いだろ。せめて洗濯して返せよ」
と、それだけ言って歩き始めた。
そうだよね……、と呟いて奈由美も渋々と歩き出す。
「――――何だったら買い取っちゃえよ、ソレ。せっかく似合ってんだから」
足を止めて、奈由美は顔を上げた。
そこにはそれ以上言わず、少し足を速めて倉庫を立ち去ろうとする朱雀の後ろ姿。「あ〜っ、たく。喫煙室はどこだっけかなぁ」などとボヤいている。
必死に離れていく彼の背中。
奈由美は着ているドレスをチラリと確認してから、明るい表情でその後を追いかけた。
「喫煙室はないよっ!」 「じゃぁ、部屋で吸う」
「ダメっ。今日は禁煙日!」 「……勝手に決めんなって」
豪華客船の廊下には、楽しそうな少女の姿と面倒臭そうな青年の姿がある――――――。
Act8
航行ツアーは往復で10日間のはずだったが、約1名無理をして風邪を激化させてしまったため、片道だけで帰国する事となった。
彼らが呼ばれた最大の理由である「万が一の事態」は無事に収拾できたので、彼らの離脱をネフィスは「えぇーっ、凄く残念だわ。ちぇっ!」と後腐れ無く“快諾”してくれた。
避暑も兼ねた旅であった為、戻った家の暑さに絶望する3人。こういう時ばかりは左右を囲む高層ビルの影がありがたい。
今回の依頼のおかげで新しいクーラーを買う目処がたったものの、どうせ買ってもすぐに壊されるさ、と朱雀は新人の活躍に期待していないご様子。
『グヘっ、ガハぁぁぁっ!!!』
2階から聞こえてくる酷い咳。「もうあれ、咳じゃないよ。絶叫だよ!」と黄龍が心配していたが、「青龍は強い子、元気な子」と朱雀はテキトウに答えた。
どうしてそう冷たいのか、と詰め寄る黄龍をワザとらしく着火した煙草の煙で追い払う朱雀。
ボロの家に男女の言い争いと、絶叫のような咳が響き渡った。
激しい咳が隣から聞こえる2階の一室。机には兄妹で撮った写真が置かれている。
お世辞にも収納力が高いとは言えないクローゼットの中には、クリーニングから帰ってきた薄いピンク色のドレスが大切そうに掛けられている――――――。
シンパシー号: End